和兵衛窯2代目・渡邊葵さん
「個展にお越しいただくお客様に「素敵な作品ね」と声をかけてもらうことが私にとってのご褒美なんです」そう話した葵さんの優しい顔が深く印象に残っています。
どんなものをつくるかを考え、自分と向き合い、実際に手を動かして具体的な形にしていく。どんなに時間や労力をかけてつくったものも、お客様に受け入れてもらえるかどうかは分からない・・・。『ものづくり』とは、孤独な仕事ではないでしょうか。不安が大きいからこそお客様の言葉ひとつでモヤモヤしていた気持ちが吹き飛ぶのでしょう。 白岩焼・和兵衛窯の2代目として活躍する陶芸作家の渡邊葵さん。私が住む地元秋田の陶芸作家さんということで、これまで何度かお話しする機会がありました。その印象は、心配や不安など感じさせない落ち着いた存在感を持つ女性。そして個展のたびに新しい作品に挑戦する、強い意思を持って仕事に取り組んでいる「強い葵さん」でした。窯を継いだ2代目という境遇からそのような印象を勝手に膨らませていたのかもしれません。
今回お話をうかがって、葵さんの新しい一面がのぞけた気がします。素敵な作品づくりをそつなくこなす遠い存在ではなく、日々悩んだり迷ったりしながらも作品づくりに誠実に向き合う姿が見えてきて、改めて共感しました。 そんな陶芸作家としての渡邊葵さんをより深く知っていただくために、まずは白岩焼や和兵衛窯の歴史をぜひ知っていただきたいと思います。 もちろん、葵さんの完成作品を見るだけで「美しいな」とシンプルに感じることもできますが、産地や窯の歴史を含めた背景を知ったうえで作品を見てみると、美しさの深みが増してくるかもしれません。 では、さっそく白岩焼の歴史を紹介していきますね。
白岩焼の歴史
白岩焼のはじまり
白岩焼のはじまりは江戸時代中期。当時、秋田藩の財源の一つが鉱山だったこともあり、技術発展のために藩外の有識者を招くことがありましたが、そのひとりが後に白岩焼の創始者となる松本運七です。運七は現在の福島県にある「大堀相馬焼」の関係者で、採掘した鉱物の精製時に使っていた陶製の「るつぼ」と呼ばれる耐熱容器を作る技術者として招かれました。 「ルツボ」作りの技術指導の任務が完了した後、運七は秋田に自分の窯を開きたいとの思いで陶土を求めて各地をまわりました。その過程で白岩の土が良質であることを発見し、1771年、現在の秋田県仙北市角館町白岩地区で「白岩焼」を始めることにしました。
窯を開いた運七の元には白岩の住人が陶芸の技術を学ぶために弟子として集い、その後の白岩焼発展の基礎を築きました。最盛期には6つの窯で約5,000人が白岩焼に携わって働いていたと言われています。 この後にも触れますが、現在ある白岩焼の窯は葵さんとご両親が一緒に運営する和兵衛窯の1軒のみ。地元で5,000人もの人々が携わっていた産業だったにも関わらず衰退していくことになるのですから儚いものですね。さて、白岩焼の産地が発展した時代はどのように移り変わって行ったのでしょう。
白岩焼の発展と衰退
最盛期には6つの窯があった白岩焼。各窯の個性を生かした品を作り、庶民の日常品から藩への献上品にまで幅広く活用されていたようですが、江戸から明治にかけての動乱の中、廃藩置県によって藩の庇護を失ったこと、また、藩外からの焼き物の流入で競争が激化した時代背景、さらには、震災で多くの窯が壊滅状態となったことが影響し、明治33年、白岩焼は一旦幕を閉じました。 白岩焼は一旦なくなってしまったんですね。人間ではコントロールできない自然災害がきっかけの一つであったとはいえ、途絶えてしまったことは残念でなりません。でも、大事に使ってきた窯が壊滅状態となり、絶望した職人達の気持ちは理解できますよね。「この先どうやって食べていくんだろう」、「窯がないんじゃ、いままでどおりに焼き物をつくることもできない」、「家族が食べていくために何とかしなければ」、と必死な思いで生きたのではないでしょうか。白岩焼を諦めたくなかった職人は大勢いたかもしれません。彼らの悔しさを想像すると胸が痛みます。
現代の白岩焼
白岩焼が一度途絶えてから70年の月日が流れた頃、窯元の末裔だった葵さんのお母様(渡邊すなおさん)は大学生だったそうですが、白岩焼を復活させたいとの思いから、大学卒業後の1975年に和兵衛窯を開き、その後、ご結婚されたご主人(葵さんのお父様・渡邊敏明さん)と2人で白岩焼の復興に尽力してきました。
「民藝運動」によって伝統工芸の価値が見直されている時代背景は、葵さんのお母様が和兵衛窯を開くうえで後押ししてくれる推進力にもなったようです。とはいえ、70年間の空白の月日を埋めるのは簡単ではありませんでした。なぜなら、白岩焼の技術は一切継承されていなかったからです。 それでも、葵さんのご両親の努力の甲斐あり、一度途絶えた白岩焼は現代の白岩焼として復活しました。そしていま、白岩焼を復活させた2人と共に、娘の渡邊葵さんが白岩焼の作品を作ることに尽力されています。
窯元の末裔だった葵さんのお母様がご主人と一緒に復活させた白岩焼。どんな思いがあっての決断だったのでしょうか。 白岩焼がいまより大きな規模の産地だったとすると、窯によって釉薬の色味が微妙に違ったり、器の厚みが違ったり、取り入れる技術が違ったり、多様な個性が見られたかもしれません。しかし、現在は和兵衛窯のみが白岩焼唯一の窯であることが影響してか、「白岩焼=和兵衛窯」という捉え方を自然としているような気がします。そういう意味で、自分がつくるものがそのまま産地としての白岩焼を代表してしまう葵さんのプレッシャーは大きいのではないかと想像します。
白岩焼という産地の歴史や和兵衛窯のご先祖の歴史は、葵さんとは切り離すことのできない事実です。でも、和兵衛窯2代目としての葵さんだけでなく、葵さん個人としてつくりたいものの興味や、白岩焼・和兵衛窯に対する思い、伝統工芸に対する考え方など、葵さんがどんなふうに感じているのか興味が湧いてきます。
続編 渡邊葵さんを訪ねて- 白岩焼の窯元・和兵衛窯2代目 を読む
取材 2019年12月 更新 2021年10月