前編 渡邊葵さんを訪ねて - 白岩焼の窯元・和兵衛窯2代目 を読む
第三者からすると、元々家業がある方が家業を継ぐのは自然な流れのように思えるかもしれません。でも、その事業が長く続いていればいるほどプレッシャーも大きいものなのではないかと想像します。
葵さんの場合、意外にもご両親は和兵衛窯を継いでほしいとは思っていなかったようです。そのうえで、葵さんは和兵衛窯を継ぐ決断をしました。その経緯を修行時代にさかのぼって教えてくださいました。
シンタニ
葵さんは結果的に家業を継ぐことになりましたけど、ご両親も葵さんに継いでほしいと思っていたわけではなかったんですよね。
渡邊葵さん(以下、葵)
大学の時に仏像をたくさん見る機会があって、伝統が受け継がれることの大変さを知ったことをきっかけに、「自分は受け継ぐ役割を担おう」と思って白岩に帰ってきました。
大学では陶芸の研究室に週1回くらい通っていたんですけど、ろくろの技術は身に付かないままだったので、帰ってから父に教わろうと思っていたんです。だから経歴には父に師事したと書いているんですけど、父は人に教えるのが苦手な性格な人で・・・。
2年間がんばってみたんですけど、結局京都に行ってろくろの技術を身に付けることにしたんです。
シンタニ
京都には前からご縁があったとか?
葵
いいえ、まったく。調べていく中で、ろくろのことを一番勉強できるのが京都の訓練校だと思ったんです。京都府が運営していて、焼き物屋さんの子供が半分くらい、その他は大学などで焼き物を学んだ方が入ってくるような学校です。そこで2年間学んで、さらに2年間は講師として働きました。
シンタニ
一度白岩に戻ってから京都に行かれたというのは大きな決断だったんでしょうね。
葵
「なんでわざわざ京都まで行かなきゃならないんだ?」と父に反対されながら入学を決めましたし、まったく家に頼らないで生活費を工面しなければならなかったので、学校に行くか、バイトするかの毎日でした。自分としても「焼き物以外のことはしない」という決意で行っていたので、祇園の料理屋さんで皿洗いのバイト2件と、陶芸家さんのところでのアシスタントのバイトをやっていました。
坪井明日香さんという女性陶芸家がいらっしゃるんですけど、80歳を過ぎて今も現役で活躍されている方で。人間国宝の富本憲吉氏の唯一の女性弟子として知られる方なんです。たまたま学校で坪井明日香さんのアシスタントの募集があって「私行きたいです!」と手を挙げました。
バイトの中にも、葵さんのいまにつながる修行の要素がたくさんあったんですね。
葵
坪井先生のところでは4年間バイトをさせてもらったのですが、金彩をされる方で、そこで学んだ技術をいまの作品づくりに生かしています。それに最後の2年間は学校の講師の仕事が終わった後に京都の製陶所に通って、夕方6時から夜10時まで、ひたすら抹茶茶碗、例えば100個を機械ろくろで作る、その高台をひたすら削る、そういうバイトをしていました。
シンタニ
金彩技術を学んだアシスタントのバイトに、大量生産のバイト!四六時中、陶芸一色の日々を過ごしたんですね。
葵
製陶所では特に削りの技術を身に付けました。なるべく短期間で技術を身に付けようと思って、日中は学校、それが終わるとバイト三昧で・・・。そうこうしているうちに実家とも関係が改善されてきて、今度は「なんで帰ってこないんだ」なんて話になって。それで2011年4月に白岩に帰ってきました。
その後3年間、秋田市の高校で美術講師をやりながらの生活でしたが、このまま講師を続けていても状況が変わらないなと思って、無理やり焼き物の仕事だけすることにしたんです。
それを一番反対したのは実は母でした。焼き物の仕事だけでは食べていけないのではないかと心配してくれて。でも、そこからどうにかがんばっていまに至ります。
シンタニ
そうすると、仕事を焼き物一本に絞ってからまだ4〜5年ということなんですね。もっと長くやっていらっしゃると勝手に感じていました!
葵
下積みは長かったかもしれないですけどね。焼き物だけで仕事としてまわしてこれたかという意味では、この3年くらいですかね。
シンタニ
存在感があるので勝手にベテランみたいに思っていましたよ!笑 常に展示会にお忙しそうですし。
葵
必死でしたし、この数年間は仕事のことしか考えていなかったです。人としてちょっとどうかなとも思うんですけど。笑 シンタニ でも葵さんにとっては楽しいんですよね、きっと。
葵
楽しいですし、海鼠釉を使いながらの自分らしい形ができてきたのがこの数年なので、ようやくスタートできたような感じ。やってもやっても全然足りなくて。
シンタニ
みんないい方向に誤解しているかもしれないですね。
葵
家業が順調でそこを継いだ人、みたいに思っているかもしれないですね。
シンタニ
一般の私たちにとっては個展の時にお店に在廊していらっしゃる葵さんの姿がいつもの印象で、外向けのちょっと華やかな部分しか見ることができないからですかね。
葵
在廊の時というのは、私にとっては作家っぽい「コスプレ」をしている状態ですね。笑 日々は工房でつくっている時の方なので。
シンタニ
葵さんの下積み時代やいまに至るまでのことを伺うと、また作品の見方も変わってきます。
*
葵さんの修行時代は、大学院卒業後に白岩に帰ってきて過ごした2年間、そして京都での4年間、秋田市で美術講師をしながらの3年間と、焼き物だけの生活になるまで約9年の年月を費やしたんですね。そこまで心折れずに続けてきた葵さんの意志の強さ。
当時は回り道のように思えていたすべての経験がいまの葵さんを成していて、ものづくりに反映されているのでしょう。
そして、家業を継ぐには自身の意志の強さが大事な要素であるとも感じます。
家業を継ぐということ
ご両親は葵さんに和兵衛窯を継いでほしいとは思っていなかったようですが、自らの意思で家業を継ぐことにした葵さん。焼き物をつくる仕事が大変だったからこそ、ご両親は葵さんにこの道を強制することなく、好きな道を歩んでほしかったのかもしれませんね。それでも、葵さんがご両親と同じ道を進むことを決め、ご両親に打ち明けた時、娘が自分たちと同じ仕事を選んでくれた、家業を継ぐ決心をしてくれたと、うれしかったことでしょう。同時に、娘も自分たちと同じような苦労を経験していくのかもしれないという心配な気持ちを抱き、複雑な心境でもあったかもしれません。実際、家業を継ぐからこその苦労が葵さんにはあったようです。
和兵衛窯の工房にて
葵
先日「美酒復権」という本を読んだんです。秋田の日本酒の蔵元5人が2010年に結成した蔵元集団「NEXT5」について書かれています。いまでこそ日本酒が人気を取り戻していますけど、先代たちの時代は日本酒が売れない底の時代で、それを経ていまの時代に継がれているので人ごととは思えなくて・・・。
焼き物が売れない、日本酒が売れない、という時代から、次の世代が苦労している親の姿を見てきているからこそ新しいことをやらないと生き残れないと必死になっている感じは同じかなと思うんです。
シンタニ
新しい挑戦は楽しみではありますけど、時代とともにどうなっていくのかという心配もありますよね。
葵
そうですね。いまと同じことを10年後もやれる保証はどこにもないので。
シンタニ
でも白岩焼は一度は途絶えたとはいえ、何百年と続いてきたんですよね。
葵
終わるのは簡単ですからね。弟子を取るとか外から人を入れるということも現状ではそれはちょっと難しいですね。私自身も体力があるうちでなければ人に教えられないので、どうしていったらいいのだろうと悩みます。
シンタニ
一般的には後継者がいないとか、道具を作る職人がいなくなったとか、素材の入手が難しくなったとか、産地産地で問題がありますよね。
葵
伝統工芸をやっている家はみんな同じような問題や課題を抱えていますよね。そもそも「伝統工芸を残さないといけない」という考えは間違っていると思うんです。現代に必要とされないと判断されたのであれば、なくなったとしてもしょうがないんですよね。それを理解した上で、つくる側がどう現代に合わせられるかを考えてつくるべきだと思います。そもそも需要のない産業が生き残れるわけはないので。
シンタニ
初めて葵さんの伝統工芸に対する考え方を伺いましたが意外でした。でもその通りですよね。
葵
どの産業にも当てはまるでしょうけど、後継者の問題や材料の問題だけでなく、「いまつくっているものって、いまの時代の中でそもそもかっこいいの?」と常に自問自答していかないといけないと思うんです。
シンタニ
いまは日常で使ってもらうものをつくって買ってもらって、という形が白岩焼が残る方法ですけど、何か違う形があるんでしょうかね。
葵
父は元々作家性の強い人なので、「お前が白岩焼を継ぐんだったら、俺は好きなことやるから」と言ってテラコッタ(素焼き)の作品なんかを自由に作り始めて。もはやそれは白岩焼ではなくなっているんですけどね。笑 でもそれはそれで父がやりたかったことなんだろうなと思うんです。見ていてうらやましく思いつつも、自分は経営的な面も考えなければならないなという気持ちもあります。
シンタニ
お父さんとしては、葵さんに対して「これからはもうお前が和兵衛窯をまわしていくんだ」みたいな気持ちの表れですかね。
葵
どうなんですかね。私自身は自分のことをそんなに作家性の強い人だとは思っていなくて。でも与えられた材料や方法でアレンジをしたりデザインを変えたりすることはできるなと思うんです。私の場合はこれからもそういうふうにやっていくと思うので、一点ものとか彫刻的ないわゆる「作品」というようなものではなく、日常で使ってもらえる器をつくることで白岩焼を残していくんだと思います。
シンタニ
でも、お父さんはお父さんなりに白岩焼の海鼠釉を生かした作品をつくりながら白岩焼や和兵衛窯に貢献したいという思いで続けてこられたんでしょうね。
葵
父がつくったものはいかにも民芸でもないですし、ずっとモダンなデザインを取り入れてきたと思うので、デザイン性なんかは参考にするところもあります。私が突然新しいことをやり始めたのではなくて、先に父がそういうことをしてくれていたから私も入りやすかったと思います。
シンタニ
お父さんもいまの葵さんと同じように、昔のやり方にとらわれず自由にものづくりをされていたんですね。
*
伝統工芸を残さなければいけないという考え方は間違っている、生き残るためには時代に合ったものづくりをしなければならない、という葵さんの伝統工芸に対する考え方、実は当たり前のことなのかもしれませんが、それをはっきり発言できるまでには様々な苦悩があっただろうと思います。重みのある発言だと感じます。長い伝統を継ぐ役目を担うのには勇気がいるでしょうし、「継ぐ人」には強い覚悟、決意、固い意志が必要なのだと改めて感じさせられました。
取材 2019年12月 更新 2021年10月